whenever wherever festival 2018



いわゆる「フェス」では、いくつもの公演が立ち上がっては入れ替わってゆく。この「フェス」における空間と時間の公共性そのものがテーマとして浮上し、キュレーターにより提示された「租界」の概念と出会い、文字通り同一の時間と空間を共有して複数のパフォーマンスを走らせる試みのアイデアが生まれた。

ではその空間構成の試みは、即物的な観点からはどう捉えるべきだろうか? そこで複数の行為の共存や入れ替わりを担保する上で重要だと考えられたことは三つある。一つ目は、空間は仕切りとして十分に利用しやすく、単純で、誰の目にも明らかな構造を持つこと。二つ目は、しかしながら実際にはいつでもルールを破れる自由度を担保していること。三つ目は、それらすべての構成要素が、すんなり受け入れてしまえる日常と同じ凡庸さを携えながら、一方で「どこか居心地が悪い」といった、常にあやふやな疑念や違和感を醸し続ける細部やヒントに満ちていること。それらどの働きも、「租界」のもつ理知や妥協、柔軟さ、刹那、変異し続ける潜在性の培養に欠かせないものであるはずだ。

これらの試みは、日常の公共空間におけるささやかなリスクと報酬のかけ引きを増幅して実践するという意味で、さながら公共空間の「クラブ活動」のようだ。そして公演の4日間が「公共空間クラブ」なら、その地に身体を、目をならす作業はさながら「基礎トレ」と言えるだろうか。ここにその暫定的ガイドラインを書き出し、参加する方々のより踏み込んだ部活動の実践を祈る(別に部活なしでも来ていただきたいが)。ようこそ、「公共空間クラブ」へ。
【whenever wherever festival2018 フライヤーにて、空間デザインに関して執筆したテキストを抜粋】

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公共空間クラブへのガイドライン
 「ここへ来るつもりじゃなかった」

連想と思考 記憶と知能 命とマシーン
その連続に気づいたら そこはスペイシーな浮遊ゾーン
意味なんかなくていい 他者(ヒト)と他者(ヒト)がそこにいて
だから色(イロ)を感じられる
月夜の折れた葦のように
ただ在ることができる領域(エリア)
「ここへ来るつもりじゃなかった」

理解してるものを認知してなくて
認知してるものを理解してなくて
言葉が光に融け出すとして
イメージが響きになるなら
すべては書かれていて すべては同時に読まれてる
どこまでも透明な まっさらな真空溶媒
そう 視界は良好 基礎トレ好き so bad

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“whenever wherever festival 2018″ 空間デザイン /北千住BUoY, 東京, 2018年4月26日[木]―29日[日] © 木内俊克 + 山川陸
フェス主催: ボディ・アーツ・ラボラトリー フェス助成: アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)、公益財団法人アサヒグループ芸術文化財団
フェス協賛: OCHABI Institute(御茶の水美術専門学校、御茶の水美術学院、OCHABI artgym)、株式会社松下産業
用途: ダンス、演劇、パフォーマンス、音楽、レクチャー、トーク、ワークショップが複合し、同時多発的に空間を占有するフェスティバルの為の空間美術

※ 画像17枚目:© Shinichiro Ishihara   22-23/30-31/36枚目:© 田村友一郎